製品別採算が見えない会社は、値上げ交渉に勝てない
診察室で「なんだか、お腹が痛いんです」とだけ訴えても、医師は薬を出せません。いつからか。どのあたりが。どんな痛みか。食後か、空腹時か。問診票が埋まって、はじめて処方箋が書けます。訴えの切実さと、処方の可否は、別のことなのです。
材料費や人件費など、事業を運営する上でのコストは上がり続けています。しかしながら、納入価格への反映は十分できていない、という相談をよく受けます。話を伺うと、たいてい交渉の場面の話になります。どう切り出すか、断られたらどうするか、関係が悪くならないか。
ただ、実際に交渉がうまくいっている会社とそうでない会社を見比べると、差がついているのは交渉の技術ではありません。交渉のテーブルに何を持っていったか。そこに大きな違いがあります。
コスト上昇分の半分近くを、まだ自社が飲んでいる
2026年版の中小企業白書・小規模企業白書によれば、コスト全般の価格転嫁率は53.5%(2025年9月時点)です。年々上昇してはいるものの、上昇分の半分近くは、依然として自社が吸収していることになります。
この数字を見て「うちだけではないのか」と安心してはいけません。転嫁できている会社とできていない会社の差が、そのまま利益の差になっているという意味だからです。
相手の担当者も、社内を説得しなければならない
見落としがちですが、交渉相手の購買担当者は、あなたの値上げを承認する権限を持っていないことがほとんどです。彼らは持ち帰って、上司や関連部門に説明し、説得しなければなりません。
私は発注側の立場で、協力会社からの価格改定要請を受ける側にもいました。そのとき何が必要だったかというと、社内の説得に使える武器(資料)です。「原材料が上がったそうです」では、稟議は通りません。「この品番について、材料費が○%上昇し、単位あたり○円の増加。根拠は市況指数の推移」と書ければ、通りやすくなります。
つまり、値上げ交渉とは、相手の担当者に社内説得の武器を渡す行為でもあるのです。この視点を持つと、準備すべきものが自然に決まります。
持っていく資料は、1枚で足ります
分厚い資料は不要です。次の5項目が入った1枚があれば、協議は始まります。
- 対象品番(全製品まとめてではなく、品番を特定する)
- コスト上昇の内訳(材料費・労務費・エネルギー費・物流費に分ける)
- 上昇の根拠(仕入先の値上げ通知、最低賃金の改定、市況指数など)
- 単位あたりの影響額(1個あたり何円、年間で何円)
- 要望額と、代替案(全額が難しい場合の段階案、ロット変更案など)
5番目の代替案が、意外と効きます。ゼロか百かの要求より、選択肢を示したほうが決まりやすい。これは交渉一般に言えることです。
ただし、ここで注意すべきことがあります。それは、原価の内訳を見せすぎない、ということです。原価が見えすぎると、逆に値下げの要請をされかねません。「この材料の値上げは分かるけど、こちらの工数はかかりすぎでは?」など指摘されるかもしれません。そうすると、値上げと値下げが相殺されて、結局価格が変わらない、といったことも起こり得ます。示すのは、コスト上昇分などの「差分」に留めた方が良いでしょう。
製品別採算がないと、そもそも何も決められない
上の1枚を作るには、製品別の原価が分かっている必要があります。ここが空白のまま交渉に臨むと、次の3つで詰まります。
- いくら要求すればよいか決められない——根拠のない数字は、相手にも見抜かれます
- どの取引先から交渉すべきか分からない——採算の悪い順から着手するのが定石です
- 飲んだ場合の影響が読めない——「今回は我慢します」の代償が見えないまま判断することになります
簡易版なら、1か月でつくれます
本格的な原価計算システムは要りません。主要10品目について、次を集めるだけで十分に実用に耐えます。
- 材料費:直近の仕入実績から拾う
- 直接工数 × 賃率:ここに段取り時間を必ず含める
- 外注費:発注実績から拾う
段取り時間を入れるかどうかで、小ロット品の見え方が変わります。多くの会社で(段取り時間がかかっていて)「実は赤字だった製品」が浮かび上がるのは、たいていここです。
制度は、追い風になっている
2026年1月、下請法が改正され「取適法(製造委託等に係る中小受託事業者に対する代金の支払の遅延等の防止に関する法律)」として施行されました。サプライチェーン全体での価格転嫁の徹底が急務であり、取引段階が深くなるほど転嫁率が低くなる傾向を改善する重要性が高まっています。
主な改正点のうち、価格交渉に直結するのは次の2つです。
- 協議に応じない一方的な代金決定の禁止——協議を求めることは、正当な行為として位置づけられました
- 手形払等の禁止——資金繰り負担の押し付けにも歯止めがかかります
「下請」という用語自体が、対等でない語感を与えるとして改められました。国が年2回実施している価格交渉促進月間のフォローアップ調査も含め、環境は着実に整いつつあります。
交渉は、関係を壊す行為ではない
値上げを切り出すと関係が悪くなる、という不安はよく分かります。ただ、発注側の立場を経験して思うのは、数字を持って正面から来る取引先のほうが、むしろ信頼されるということです。感情で値上げを求める会社は警戒されますが、根拠を示す会社は「きちんと管理している会社」と見られます。
そして、赤字のまま供給を続ける取引先は、発注側にとっても不安定なリスク要因です。持続可能な価格に整えることは、双方にとっての利益になります。
診察室の話で言えば、医師を動かすのは、痛みの強さではなく、問診票の具体性です。「3日前の夕食後から、みぞおちの右側が、締めつけられるように」。そこまで言えて、はじめて検査と処方が始まります。
交渉の勝敗は、席に着く前に決まっています。準備は、早いうちから始めましょう。
参考
- 中小企業庁「2026年版 中小企業白書・小規模企業白書」第1部第1章第6節 価格転嫁、コラム1-1-2 取適法・振興法の施行

